3万人を4日間で100キロも動かした「中国大返し」

「道沿いにエイドステーションを完備していた」秀吉が中国大返しに成功した本当の理由3万人が4日間で100キロを走破

 

 

2021/12/12

 

 

本能寺の変織田信長が亡くなったとき、明智光秀をいち早く倒したのは備中高松城(現在の岡山県)を攻めていた羽柴秀吉だった。3万人を4日間で100キロも動かした「中国大返し」は、なぜ実現できたのか。城郭考古学者の千田嘉博さんは「近年の発掘調査で、秀吉が街道沿いにエイドステーションを完備していたことがわかってきた」という――。

※本稿は、亀田俊和、倉本一宏、千田嘉博、川戸貴史、長南政義、手嶋泰伸新説戦乱の日本史』(SB新書)の一部を再編集したものです。

 

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豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵)(作=狩野光信/PD-old-100/Wikimedia Commons) 全ての画像を見る(4枚)

 

秀吉を天下人にした「超高速の強行軍」

 

天正十年(一五八二)六月二日、本能寺の変織田信長が亡くなりました。謀反したのは信長の重臣のひとり明智光秀です。このとき信長の家臣団のなかで、中国地方で毛利氏との戦いを担当していた羽柴秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲中でした。

 

高松城の水攻めとして有名です。そこに、本能寺の変の報告が届きました。光秀が毛利氏を味方につけるために放った密使が、手違いで秀吉の陣に紛れ込んで捕縛され、事態が発覚したという説もあります。

 

秀吉は、ただちに毛利氏と和睦を結び「中国大返し」と呼ばれる超高速の強行軍で畿内に引き返し、山崎の戦いで光秀を破ったと言われています。この勝利で秀吉は信長の後継者としての立場を固め、天下人への道を歩む転機になりました。

 

秀吉の勝利と栄光への道筋を開いた中国大返しは、戦国時代の奇跡とされてきました。備中高松城攻めの陣を払って畿内を目指してからわずか四日で、秀吉は自らの拠点である姫路城に到着。ここでしばし兵を休ませて畿内の情勢を調べ、秀吉は山崎の戦いに臨みました。

 

高松城から姫路までは約百キロ。率いていた軍勢は、約三万と言われています。なぜこれほどの大軍を率いての高速移動が可能だったのでしょうか。「奇跡」はなぜ実現したのか。それは戦国・織豊期の大きな疑問のひとつでした。

 

中国大返し」を可能にした城の痕跡

 

私の専門とする「城郭考古学」は城の考古学的な調査・検討を中心に、文字史料や絵図資料も検討する学融合の方法で、城の総合的な理解を目指します。そして城から歴史を読み解くとともに、歴史を体感するかけがえのない場所として城の保護と活用を考えます。

 

城は戦いのためだけではなく、政治や経済、文化の中心でもありました。城からわかることは多いのです。

 

城郭考古学の視点から中国大返しを考えるのに最初に注目したのは、兵庫県神戸市兵庫区にあった兵庫城でした。この城の存在は、もちろん文字史料から知られていました。

 

天正九年(一五八一)に、信長の家臣・池田恒興が築城した城で、摂津国を押さえた信長の拠点のひとつでした。兵庫城は瀬戸内海運の重要な港であった兵庫津に接していて、水運をコントロールする立地でした。この兵庫津は、古く奈良時代に設けられた大輪田泊にルーツがありました。

 

兵庫城はのちに豊臣秀吉の直轄地となり、江戸時代には尼崎藩の陣屋がありました。明治時代には最初の兵庫県庁が兵庫城の跡地にできました。

 

その後、この場所は市場になっていましたが、現在は大規模ショッピングセンターになっています。敷地の一角に兵庫城を記念した石垣のモニュメントがあります。

 

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2009年5月27日、兵庫城の石碑と案内看板(写真=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

 

文字や絵図に残されていない“埋もれた歴史”

 

江戸時代の陣屋の頃のようすを示す絵図はありますが、戦国・織豊期の兵庫城を描いた絵図はなく、兵庫城のくわしいかたちは、長い間謎に包まれてきました。しかしショッピングセンター建設を契機とした大規模な発掘によって、考古学的に兵庫城をつかむことができたのです。

 

この発掘の結果、兵庫城は堀を兼ねた運河で兵庫津と船で行き来できた水城だったとわかりました。今でもショッピングセンターの横には大きな運河があって、当時をイメージすることができます。

 

江戸時代の奉行所だった頃には、外郭や主要部を厳重に囲んだいくつかの堀を埋め立てて、町家が周囲に建ち並んだこともわかりました。そして、こうした江戸時代の遺構の下に池田氏が築城した当初の兵庫城が残っていたのです。戦国・織豊期の兵庫城は、本丸の周囲に石垣と水堀をめぐらした立派な城でした。

 

海に面したやわらかい地盤に石垣を積むため、兵庫城は木を基礎にした「胴木」を採用した先進的な城でした。石垣の石材は基本的に自然石を用いていて墓石などの石塔の転用石も含んでいました。

 

こうした特徴や遺物から、兵庫城で見つけた石垣は天正期(一五七三~九三)のものと判明しました。この時期の拠点的な平城の具体的な構造がわかったのは大きな成果でした。

 

ふたつ並んだ兵庫城本丸出入り口

 

石垣の特徴や遺物の年代観から、この城跡が池田恒興の築城によってできた兵庫城であったのは確実です。ところがあまり注目されませんでしたが、発掘ではもうひとつ重要なことが判明していました。

 

城の本丸への出入り口を天正期のうちに大きく改修したことを見つけていたのです。神戸市教育委員会のていねいな発掘のおかげです。

 

詳しく観察すると、本来あった本丸の出入り口に加え、もうひとつの出入り口をつけ足していたのです。その結果、兵庫城の本丸は出入り口がふたつ並んだ姿になったのでした。

 

その改修工事を行ったのは、先述したように築城時期からそれほど時代が下らない天正期のことでした。なぜ、わざわざふたつの出入り口を並べるように改修したのでしょうか。

 

私はこの改修が兵庫城を高貴な人物が宿泊する施設「御座所」にするためで、兵庫城を御座所として入城するはずだった人物は、ずばり織田信長だったと考えています。

 

もちろん織田信長本能寺の変で亡くなったため、実際に兵庫城を「御座所」として使うことはありませんでした。しかし発掘成果が物語る兵庫城の御座所化は、幻となった織田と毛利の決戦を考える手がかりになるだけでなく、羽柴秀吉中国大返しの秘密を読み解く鍵になる発見なのです。

 

秀吉がつくった信長の御座所

 

さて、毛利輝元との決戦のために信長が親衛隊とともに、何の予定もなく野宿を重ねて備中高松城まで進軍するつもりだったとはとても考えられません。

 

さらに信長本隊の前後には、光秀指揮下の畿内衆や信忠指揮下の尾張・美濃衆の大軍も進軍していました。信長軍の総数は数万人に達していたはずです。どの部隊も適切な宿泊・休憩・補給が必要でした。

 

信長の出陣に関する当時の史料には「御座所」がしばしば出てきます。これこそが信長と親衛隊のためにあらかじめ設けたエイドステーションでした。

 

信長に快適な出陣をしてもらうために、充実した宿泊・休憩・補給ができるポイントを設けることは、信長に出陣を要請した重臣たちにとって必須の業務でした。信長に備中高松城への出陣を求めた秀吉にとっても、信長の移動経路に信長をお迎えする「御座所」を設けるのは、当然でした。

 

秀吉文書から、信長のための「御座所」づくりの実態を確認してみましょう。

 

天正九年二月十三日付亀井茲矩(新十郎)宛秀吉文書(「石見亀井家文書」国立歴史民俗博物館蔵)で秀吉は、毛利軍と戦う前線の亀井茲矩に対して「信長が御出馬なされるのをお急ぎなので、そちらの御座所の普請を日夜油断なく申しつける」とした上で「来月(三月)中旬頃に御座所ができれば、すぐに信長が出陣する」と書き送りました。

 

この文書の「御出馬」「御座所」が信長の「御出馬」、信長の「御座所」を指したことに疑問の余地はありません。

 

御座所どうしをつなぐネットワーク

 

つまり秀吉は、本能寺の変のきっかけになった天正十年の信長出陣以前にも、信長の出陣計画ごとに、入念に「御座所」を整備していたのでした。

 

そしてこの秀吉文書が示すように、信長は自身の出陣に際して、その方面の軍事指揮権を与えた武将(この場合は秀吉)が責任をもってあらかじめ「御座所」をつくるよう求めたのです。

 

信長の出陣計画に合わせて無理やりにでも「御座所」をつくっておかなければ、信長の出陣も行われませんでした。

 

天正十年六月の備中高松城への出陣では、実際に信長が京都まで動座しました。このことから秀吉による信長のための「御座所」は、完璧に完成していたとわかります。

 

しかも「御座所」は一カ所つくればよいのではなく、信長の一日の行軍距離ごとに整えておく必要がありました。信長が大坂城を出て最前線の備中高松城の包囲陣へ到着するまでの間に、秀吉はいくつもの「御座所」を準備したのです。

 

文字史料から判明した信長出陣のための必須の施設「御座所」を踏まえて、兵庫城本丸のふたつの出入り口を並べた大改修を考えると、この改修が信長をお迎えする「御座所」として、ふさわしい格式を備えるために行ったことが浮かび上がってきます。

 

なぜそんなことが言えるのか? 実は城や館の正面にふたつの門が並び立つ姿は、室町時代以来の最高の格式を表現した権威のシンボルだったからです。

 

室町時代の幕府や管領邸などの高位の武士の館では、館の正面に将軍などの貴人が通るための特別な門「礼門」と、その他の武士たちが通った通用門のふたつの門が並び立ちました。「礼門」は通常は閉めていて、高貴な方をお迎えしたり、館の主が出入りしたりするときに開きました。それが「礼門」を通れる人の権威や身分を象徴したのです。

 

城郭考古学が解き明かした“奇跡”の正体

 

兵庫城はもともと当時の先進的で実戦を意識した城でした。本丸の正面に複数の門を開くのは、防御上のメリットがないため、発掘でわかったように当初の本丸正面の出入り口はひとつでした。

 

しかし「御座所」として本丸に信長をお迎えするとなると、信長も家臣と同じ出入り口を使うことになってしまい、問題が生じます。そこに堀の一部を埋めてふたつめの出入り口をつくったのでしょう。

 

実際に信長の安土城山麓大手門では、主たる大手門の両脇に別の出入り口が並んで、少なくとも四つの出入り口があったとわかっています。信長は身分ごとの門の使い分けを厳格に意識していました。こうした証拠から兵庫城の改修は、信長の御座所のためだったと城郭考古学の視点から評価できます。

 

このように信長の快適で円滑な動座を実現した「御座所」の構成要件を改めてまとめてみましょう。

 

「御座所」は

(1)信長のための防御を伴う豪華な御殿、

(2)親衛隊のための陣小屋群、

(3)必要な人馬の食料・軍事物資の集積と大人数に食事をふるまえる調理施設、

(4)「御座所」間をつなぐ街道や水路の整備、

(5)信長一行の移動情報を先の「御座所」へ高速伝達する情報ネットワークという複合した「御座所システム」によって機能していました。

 

そしてこの「御座所システム」を信長のために構築した秀吉は、最前線の備中高松城から畿内まで、どこに「御座所」があり、どの街道をどう整備したかを熟知していたのです。

 

御座所システムが秀吉の「中国大返し」を可能にした

 

秀吉は、信長が大満足で備中高松城の包囲陣に到着できるよう万全の準備をしていたに違いありません。実際には信長は本能寺の変で命を落としたので、秀吉が心を込めてつくった「御座所システム」を信長が使うことはありませんでした。

 

しかし、この「御座所システム」が秀吉に奇跡を起こすことになったのです。

 

まず「御座所システム」の通信ネットワークがあって、もともと信長の動座を注視していたため、本能寺の変の情報を秀吉は誰よりも早く、正確に入手できました。光秀の使者が誤って秀吉の陣に密書を届けてしまったという伝説よりも、信長を迎えるために秀吉が構築した通信ネットワークが功を奏したと考える方が、リアリティがあるように思います。

 

さらに「御座所システム」は、秀吉の中国大返しそのものにも、大きな力を発揮しました。

 

備中高松城を後にして、わずか四日ほどで姫路までたどり着くには、街道が整備されていることはもちろん、宿泊・休憩・補給のエイドステーションが欠かせません。突然、三万人もの大軍が武器を持って飲まず食わずで陸路を高速移動しつづけるのはとても無理でした。

 

しかし秀吉にはすべてが揃っていたのです。信長を迎えるために整備した街道を通って駆け抜けられました。信長のためにつくった「御座所」がゆったりとした信長本隊の行軍速度に合わせた適度な間隔で街道沿いにあったので、秀吉軍の全員が快適に宿泊・休憩できました。

 

「御座所」には信長一行のおもてなし用に食料を集積していたので、秀吉軍の人も馬も十分な食事をとれました。「御座所システム」こそが、秀吉軍が高速で効率よく姫路まで戻ってこられた秘密の理由だったのです。