「仮放免」という立場になって以降、就労や移動の自由はなくなった。

“人じゃない、人間じゃない・・・” 母国では迫害を受けた外国人、助けを求めた日本でよぎる「死」

2023年1月26日(木)

“人じゃない、人間じゃない・・・” 母国では迫害を受けた外国人、助けを求めた日本でよぎる「死」(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース

 

「僕はプロのシェフでした。でも今は、何もできない。我慢、我慢、我慢だけど、たまに我慢できなくなる・・・」

 

母国チリで迫害を受け、日本にやってきた料理人がいる15年以上、日本のレストランで腕をふるってきたが、男性は今、働くことが禁止されている。入管施設に収容された後、一時的に拘束を解かれる「仮放免」という立場になったからだ。国民健康保険にも入れず、県境をまたぐ移動の自由もない。最後のセーフティーネットである生活保護の利用もできず、寄付を頼って一日一日を生きる、極限の生活を強いられている。

 

新型コロナの蔓延以降、急増する仮放免者の実態を追った。

 

■机には精神安定剤 我慢を強いられる仮放免

 

「僕は今自分で何もできない。モノみたい。人じゃない。人間じゃない」

 

東京都内のマンションの一室。精神安定剤の束を机に並べながら、クラウディオ・ペニャさん(62)が呟いた。南米・チリの出身で、チリで開かれた国際料理コンテストで優勝経験を持つ一流の料理人だ。1996年、料理人として技能ビザで来日して以来、27年間日本で暮らしている。

 

普段は明るくはっきりした声で話すぺニャさんだが、今の暮らしのことを聞くと、目は虚ろになり、空気が一変する。2011年に入管施設に収容され、2020年に一時的に収容を解かれる「仮放免」という立場になって以降、就労や移動の自由はなくなった。住む場所も、食べるものも、周りに頭を下げながら、寄付を頼るしかない生活を送っている。

 

ペニャさんは幼い頃からシェフになることが夢だった。台所で母親の隣に立ち、手伝いながら料理を覚えた。15歳で調理の専門学校に入り、腕を磨いた。 転機となったのは、1996年。日本のチリ料理レストランの経営者から声がかかり、来日した。ペニャさんは目尻に沢山の皺を寄せ、いとおしそうに当時の思い出を語る

 

「成田空港に着いたその足で、レストランに行きました。『クラウディオ、あれ作って、これ作って』って・・・楽しかった、本当に楽しかった」

 

ペニャさんの明るいキャラクターとその確かな腕で店は繁盛し、活躍は新聞や雑誌にも掲載された。深夜まで働き、少し寝てまた厨房に戻る日々。休みもないほど忙しかったが、自分の料理で客が笑顔になった時、何にも替えがたいほどの喜びを感じた。

 

■入管は「恐怖」の日々 描いた1枚の絵

 

すべてが一変したのは2011年。日本での生活にも慣れた頃、知人の日本人男性から新しいレストランを一緒に始めようと誘われ、当時働いていた店を辞めた。その矢先、東日本大震災が起きた。知人はペニャさんの保証人にもなっていたが、原発の影響をおそれ、約束を守ることなく日本を離れてしまう。

 

保証人も職場もなくなれば、在留資格は更新できない。ペニャさんは新たに保証人になってくれる人を探したが、震災直後の混乱の中、ペニャさんを雇いたいと言ってくれる店はどこにもなかった。そのまま在留資格の期限は切れ、東京・品川区の入管施設に収容された。

 

これまで15年間正規ビザで働き、税金を納め、日本語を習得し、日本社会の一員として生きてきた。なにより、自分の手で人を幸せにしてきたという、料理人としての誇りがあった。在留カードを失った日、そのすべてが一瞬にして奪われた。

 

ペニャさんは収容施設での日々を、「恐怖」と表現する。そこは、これまで日本に対して抱いていた「人権の先進国」というイメージからはかけ離れた場所だった。

 

「これは、同じブロックの収容者が、首を吊ったとき…」

 

そう言って、収容中に自分が描いた1枚の絵を見せてくれた。小さな部屋の窓から差し出されているのは、CDだ。それを鏡代わりに奥の部屋を覗くと、自殺未遂をした収容者が担架で運ばれていくのが見えたという。

 

日本の収容制度には期限がない。そのため長期収容が常態化し、絶望した収容者が自ら命を絶つ事件が相次いでいるのだ。2007年以降、全国で収容中に死亡した外国人は18人、うち自殺者は6人にのぼる。

 

「思い出すと、今も心が痛い」。計4年半に及ぶ長期収容は、ペニャさんの心にも深い傷を残した。

 

■収容から解放も 「生きる意味ない」仮放免の生活

 

2020年5月、必死の訴えが実り、ようやく一時的に解放されることとなる。しかし、それは在留資格のない「仮放免」という立場だった。

 

「仮放免」は、病気などの特別な事情がある収容者に許されてきたが、2020年から収容施設でのコロナ感染を抑えるため積極的に行われるようになった。仮放免されている人の数は2021年時点で少なくとも4174人にのぼり、コロナ前の2018年と比べると1600人以上増加した(※法務省より 退去強制令書が出ている仮放免人員)。

 

しかし、仮放免中は就労が禁止されているため、当然収入もない。その上健康保険などの社会保障も一切受けられず、医療費は全額自己負担だ。月に一度は入管に出頭し、仮放免の延長を申請する必要がある。しかし延長の許可が下りず、その場で再び収容されてしまうおそれもある。

 

ペニャさんも、いつまた無期限の収容が始まるか分からない恐怖に震えた。何より自分の尊厳を保っていた“料理人としての生き方”も奪われ、生きる意味を見失った。

 

「家賃、携帯代はボランティアさんが支援してくれる。それが恥ずかしい。僕はプロのシェフで、仕事ができました。自分のお金を作りたいのに、ビザがないからできない。 我慢、我慢、我慢だけど、たまに我慢できない・・・」

 

ペニャさんの頭には頻繁に「死」がよぎるようになり、自殺未遂を繰り返した。

 

■チリには帰れない 拷問逃れて日本へ

 

それでも、ペニャさんにはチリに帰れない事情がある。

 

1973年9月、ペニャさんが15歳の頃、チリで軍事クーデターが勃発した。ピノチェト率いる軍事独裁政権は17年続き、3000人以上が拷問によって死亡・行方不明になったとされる。

 

ペニャさんの父親は、その軍部の左派狩りに協力させられた。軍事政権崩壊後、真実和解委員会が立ち上げられると、ペニャさんの父親は自らが目にしてきた軍の虐殺行為について証言をした。すると軍の支持者からは「裏切り者」、迫害を受けてきた側からは「軍の協力者」とみなされ、一家は命を追われる対象になった。

 

ペニャさんも、チリの料理コンテストで優勝したことが新聞やテレビで報じられ、極右集団に居場所が知れわたってしまう。ある日の仕事終わり、店を出ると見知らぬ男たちに囲まれ、拉致された。男たちはペニャさんを裸にして棍棒や鎖で殴り続けた。そして池のようになった冷たい血だまりの中に放置された。

 

「もはや母国で安心して生きていける場所はない」と外に居場所を探し、日本に逃れてきた。

 

難民認定率は「0.7%」 日本の異常性

 

ペニャさんは日本で難民申請したが、認定されることはなかった。

 

日本で難民認定されるには、その人が自国の政府などから個人的に命を狙われ、生命や身体の自由が脅かされるなどの「迫害のおそれ」を証明しなければならない。この「迫害のおそれ」を証明し、日本で難民認定されるのは、0.7%(2021年・難民支援協会調べ)という狭き門。ペニャさんも、その「迫害のおそれ」が証明できないとされたのだ。

 

難民問題に詳しい駒井知会弁護士は、「ペニャさんは『自国政府からの迫害ではない』との点で難民として認められなかった。解釈が極端に狭いことが、難民鎖国と呼ばれてきた日本の課題」と指摘。

 

「仮放免は収容されないものの結局何もできない。その状態が数年続けば、人間の尊厳は打ち砕かれてしまう」と話した。

 

ペニャさんが2度目の難民申請の準備をしていた2022年春。

ウクライナからの避難民が日本に到着し、空港で歓迎を受けるニュースが連日のように報じられていた。

ペニャさんは、その姿を複雑な気持ちで見つめていた。

 

「僕は26、7年間日本に住んでいます。そのうち12年は難民申請の結果を待っています。日本は今ウクライナの人を積極的に受け入れているし、お金の支援もある。ウクライナの人はもちろん助けたい。でも、日本の中を見てください。僕だけじゃなく、仮放免の人がいっぱいいます。私たちはいつ・・・」

 

ペニャさんは今も、再び厨房に立つ日を夢見て難民申請の結果を待っている。

 

※この記事はTBS NEWS DIGとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。

(取材・文:TBSテレビ報道局 城島未来)さんの記事でした!

 

 

 

 

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